しゃーないかな、このままで。

自分の好きなこと、居場所づくり、子育てなどで感じ考えたことを書いていきます。

子育て、仕事、自分への不安な気持ち

「不安と向き合う」。

子育ても、仕事も、家での時間も、なぜか急に

周囲のことが気になって、周りに答えがあると思い探し始めて

いま目の前にあることに向き合えなくなることがある。

たとえば、

インターネットで「英語 勉強」「子育て ミニマリスト

「睡眠時間」と検索をする。そして出てきたことを読んで

それらしい答えをみつけて、ほっとする。

でも、それをいくらしても、なんだかソワソワする気持ちは

なくならなくてどんどん探してしまう。

 

そこで、その気持ちに「不安」と仮に名付けて、ぐっ、と

何かをしたくなるのを我慢して、外に向かう気持ちを自分のほうに向けてみる。

それは、手帳に思うままに書き出すとか、頭でグルグル考える。

最初はよくわからない気持ちが、だんだんと整理はされないけれど

自分の中で、そのままの状態で、居場所が見つかるように感じる。

不安な気持ちと仮に名付けたソワソワが少し落ち着いてきます。

自分の子どもを待たせてしまっては

遊び場や古民家で子どもたちとすごしているときに

自分の娘よりほかの子を大事にしてしまうことがあります。

 

例えば娘に「あそんで」と言われると何かしら理由をつけてしまうことも

娘以外に言われると、すぐに、遊ぼう!となる。

自分の子どもには、自分の都合を言ってしまうのに

娘以外に言われたときは、はい!とすぐに動ける。

 

こういう活動をしていると、子どもたちの要求に答えたいと思う。

それは悪いことではないと思っています(活動をする意味はそこですからね)。

でも、悪いことではないから娘をおざなりにしていても満足感を得てしまっています。

それが怖いなあと思います。

 

前も、来ている子の卓球しよう、ホッピングしたいに答えようとして

一番近くで抱っこしてという娘に「待ってね」と言っていました。

そのとき、それを見ていたお母さんが、

娘に抱っこしようかと声をかけて、抱っこしてくれました。

その、お母さんがしてくれたことはとてもありがたかったんです。

でも僕は、娘を抱っこしてあげることを最初にできたはずです。

 

地域の子どもたちの居場所を作りたくてしている活動で

自分の子どもに我慢をさせてしまうのは、何か違うなあと思います。

自分の中で、悶々としながら活動をしていきます。

1日1回、子どもをしっかりと抱きしめること

子どもが自由にすごせる場所を作りたくて
冒険遊び場や古民家の開放をさせていただいています。

私自身、最初の頃は娘が自由に遊んでほしくて行っても
娘が私と遊ぼう遊ぼうで全然一人や友達で遊ばないことに
なんでだろうと思っていました。

そして、娘が「パパ一緒に遊ぼう」や「抱っこ」と言うと
何かしら理由をつけて断ったり、
少し遊んで、すぐに隙をみて離れてみて呼び戻される。
抱っこを切り上げようとして下して、またせがまれる。
を繰り返ししていました。
その間、一人や一緒にいる子たちと遊んでほしいと思っていました。

でも、何度か冒険遊び場などで娘とすごしているときに
周りの親子を見ていて気付いたんです。それは、
子どもたちの「遊んで」や「抱っこして」に
すぐに十分応えてもらっている子どものほうが
思いっきり遊んで冒険をしているなあって。

それから、真似て少しずつ娘の要求に応えるようにしてみると
だんだん娘が私から離れて遊ぶ時間が増えてきました。
娘の私と一緒にいたい、という思いを満たさないと
思いっきり遊んだり冒険はできないってわかりました。
そして、それは私が娘たちにとって、そんな大事な存在に
なれるんだということにも気づかせてもらえました。

子どもに冒険(日常生活では探索かな)をして欲しいなら
子どもがいつでも安心できる場所があると感じることが
大事なんだなと気づきました。

娘が保育園に行ったり私たちの元から離れているときは
子どもたちは思いっきり冒険や探索をしているはずです。
だから、1日1回でもぎゅっと抱きしめることが
大事なんだと思うんです。

一緒にすごす時間

「子どもたちはみんな、お母さん、お母さんと言って

近くに来なくて、お父さんはさみしいなあ」

と言っているけど、普段居間にいなくてすぐに自分の部屋に行くやん。

それで、さみしいって何なん。そらそうなるやんね。

 

最近、聞こえてきた世間話がずっと頭に残っています。

なぜって、ぼくも当てはまるよ。

ぼくも、子どもと妻が居間で過ごしているときに本を読んだり調べものしたり

自分のしたいことをしていました。

そこにいなくても、いいんやんって思っていました。

 

でも、そういうことをしていると、将来子どもたちに相手にされなくなってしまう。

これは、寂しいだろうなあ。僕には。

 

ほぼ日を読んでいたら、『回数がだいじ』ということが書かれていました。

たくさんすることは、親しさにつながるんだと。

だから、なんでもないような、居間での時間を重ねることは

子どもとの関係を築いていくにはとても大事なんだということだと思います。

 

そして、居間で一緒に過ごすようにし始めています。

子どもたちは、ソファーに座っていると、くっついてくれます。

なかなか、素敵な時間だなあと思います。

書かないのは、

できるだけ、毎日書くっていったのに、

頭にはBlogのことが思い浮かぶのに

5日間書いておりませんでした。

 

風邪、講演会準備などと理由をあげようとすれば

あげれるのですが、あげたところで

なんの意味もないなあと感じております。

 

ただ、思ったのは生活が一定でないと

Blogのようにやめようと思えばやめれることは

簡単に続けられなくなるんだということを

気づけました。

 

なにか、やりたいことがあるのなら

それを続けられる、もしくは、できるように

生活を整えることが大事なのかなと思っています。

泣き続ける息子。

10ヵ月になる息子。

よる、妻がお風呂に入っている間、ずっと泣きます。

だっこしても、うえーん。

もちろん、おんぶしても、うえーん。

もう、何をしても泣いちゃっています。

 

この泣き続けてしまう時間がつらいんです。

ママじゃないとダメ。

パパじゃ何をしてもダメという時間。

 

たぶんね、泣いていてもそれをあやしているだけで

それは、うまく言えないのですが、、、

意味のあることだと思うんです。

(意味があるって少し違うけど他にことばを見つけられないです)

 

でも、何をしても泣き続ける子をあやすのって

ほんと、気持ちがめげてしまいます。

なんだか、自分を否定されているみたいで。

 

でも、これって妻は息子が生まれたすぐに

経験しているんだと思うんです。

昼夜かんけいなく泣き続ける息子に

おっぱいをあげても、おむつを替えても

泣き続けられる。

 

それを経験し終わっての今の状態。

夫のぼくに10ヵ月遅れでやってきたんだと思えば

どんなに、泣かれようとこの時間を向き合った

ほうが良いんだろうなあと感じます。

 

産まれて10月10日ぐらいなのかな。

なんだか、不思議な感じです。

 

子ども食堂①

今日は、わっかの子ども食堂の日でした。

ここでは、子どもたちみんなに料理に参加してもらいます。

やりたいって言った子だけですが、

やりたいと言った子には危ないからダメだよとは

言わないようにしています。

 

包丁を使えるお姉さんは、たまねぎを切ったり

ごぼうの笹掛をしたりしてくれます。

あと、キノコも切ってくれるかな。

 

ピーラーを使える子は、ニンジンの皮をむいたり

大根の皮をむいたりしてくれます。

 

どちらも使えない子は

ブロッコリーを手でちぎったり

キャベツを同じく手でちぎったり

できることをしてくれます。

 

そんなふうに、だれでもできることで

料理をしてくれるんです。

それが、とってもいいなあって思っています。

だって、その作っているときの

子どもみんなが、わくわくしたり

ちょっとドキドキしながらしている姿って

とってもいいもんなんです。

 

危ないから子どもに包丁とかピーラーは

やめておこうって意見もあります。

そして、それもひとつの意見として尊重しつつ

ぼくらの子ども食堂は、こういう子どもの

わくわく、ドキドキを大事にしていこうと思います。