しゃーないかな、このままで。

自分の好きなこと、居場所づくり、子育てなどで感じ考えたことを書いていきます。

古民家開放して居場所づくりをする理由

自分の娘たちとと過ごすこと、楽しいんだけれど

娘たちとだけだとボクには、しんどくなることがあります。

他のこと、例えば、スマホとか読書とか家事とかに

逃げたくなることがあるって感じです。

 

でも、古民家開放して、そこに来てくれる人たちと一緒に過ごすことで

娘たちと一緒にいるんだけど、一緒にいることで感じるしんどさは、

ふわーっと軽くなって娘たちと一緒にいる時間の楽しい!が増えていきます。

 

娘たちから逃げたくなる気持ちから、逃げることはできないし

娘たちと過ごす時間は、それでも減らしたくない。

そうなると環境を変えるほうがボクにはいい。

古民家で娘たちとすごす時間は自分にとって大事な時間です。

 

そしてボクが大事だと思う時間が、ほかの人にとっても、

その人なりの理由でいいなって思ってくださったら嬉しいです。

「愛する」ということ

愛するということは目の前の人のことを理解するのを諦めないこと。

今日、娘が通っている保育園での林 ともこさんの講演で聞いて

講演の内容と合わせて一番印象に残っていることです。

 

「愛する」ってよくわからないコトバだと感じています。

愛、って使うとわかったような気持ちになる。

だから、使うのには躊躇う。でも、愛というコトバでしか表現できない気持ちもある。

若松英輔さんは「情愛というコトバを使ってはどうか」とラジオでおっしゃていたが

それも、ボクには自分の言葉として使うことができないでいます。

 

そして、愛にまつわる、やりとりでは苦手なこともある。たとえば

「〇〇の、□□なところを愛している」と言うと

だいぶ言い尽くされたことでもあるけど

「□□じゃなかったら〇〇は愛せないの?」と言い返される。

そうすると、いやあ、そんなこともないけれど、となる。

 

これも言い尽くされていることだけど

「わたしのこと愛していないの?」と言われたら

いやあ、うーん、なんて考えたら、即アウトになるから

「愛しているよ」と答えないといけない。

そのとき、自分の気持ちは、よくわからなくなっていく。

 

愛は責任感というコトバとも結びつきが良くて

ぼくは、その言葉を自分の身で考えることが難しいです。

「愛している」と言っても、本当かな?と自分を疑い

「愛していない」と言うと、そんなこともないんだけどと思う。

「愛しているの?」と聞かれると(そんな機会はほとんどないけれど)

どう答えていいかわからない。

(愛を責任感に変えてみても同じです。)

 

関わっている人、ものなどを

愛していない(責任感がない)は、関心を寄せれていない自分を否定する気持ちになるし、

愛している(責任感がある)は、それを言い切るほど自分に自信を持てない感じがある。

 

でも、きょう講演会のなかで聞いた

「愛するということは、目の前の人のことを理解するのを諦めない」というのは

ちょっと、考えるきっかけを作ってくれました。

 

それは、この言葉にある

「目の前」っていうのは、自分のできる限界や狭さを認めてくれている。

数少ない人、目の前の人を大事にすることでいいんだ。

「理解することを諦めない」っていうのも、相手のことを理解できていない、

わかっていないから、愛していないのかもしれないと感じる自分に

まあ、まあ、諦めなければいいんだよと認めてくれる言葉だと感じました。

 

目の前の自分とは違ってよくわからない、自分の娘たち。

わっかに来てくれる子どもたち、普段接する人たちを理解するのを諦めない。

それが、もし愛するということなら、それならボクにとっては

難しいけれど、できるかもしれないと思った。

 

講演を聴けて良かった。

しんどさについて

しんどさは1人1人に固有のもので、誰とも比べられない。

みんな何かしら、しんどさを持っていると思います。

仕事、子育て、将来のこと、人によっていろいろ

もう、どうしようないよ、というしんどさもあるだろうし、

たまに思い出す程度のしんどさもあるんだと思う。

その、しんどさは誰かと比べる必要はないし、比べられたくない。

誰かと話をしていて「わかったよ」って、言われても申し訳ないけれど

「いやいや、わからないでしょ」って思ってしまうことがある。

誰かに「なるほどね」なんて相槌を打ってしまい、あわてて

ごめんなさいっていうこともある。

 

でも、ボクは知っている人を思いながら、あの人よりも

ぼくのほうが、しんどいよと思ってしまうことがある。

こんなとき、心はザワザワと嫌な感じになります。

 

「あの人のほうが大変ですよ、ボクなんてまだまだ大丈夫ですよ。」

謙虚なふりをして、その人のことを知らないのに、わかったように言ってしまう。

そんなときは、自分を少し傷つけてしまっています。

 

「あの人に比べたら、私なんて両親が近くにいるから、しんどいなんて言えないな」

子育てについての話になると、そういうことを言ったり聞いたりしてしまうけど

そういうのを言ったり聞くたびに、そうかもしれないけど、比べるのやめたいなあ。

しんどさは1人1人のもの、と思う。

しんどさが話題になるような時に、しんどさ比べになるのじゃなくって

お互いにしんどいねえ、って、それくらいでその場が過ぎていけば、ふぅっと息が抜けるのかなあって思います。

しんどさは、一人一人のもの。

それって当たり前じゃん、って思う方ももいるかもしれませんが、、ボクはそれを大事にしたいなあって思います。

 

 

こどもの気持ち

昨日、古民家を開放しているときに「いっしょに、バトミントンしようよ」と
男の子がラケットと羽をもって誘ってきてくれた。
誘ってくれる少し前に次女から「ぱぱ、本よんで」と言われて一緒に本棚の前に行って本を選んでいるときだった。

最初に次女が誘ってくれたから男の子に「ごめんね、さきに本を読もうね、って
誘ってくれたから本を読むあいだ、まっていてね」と言うと男の子は
「うん、わかった」と言い、次女が選んだアンパンマンを読む横に座って
一緒にボクの読む絵本を聞きながら待っていてくれた。
ときどき、「バトミントンをまだ?」と聞きながら。

そして、アンパンマンの本を読み終わると次女は、「もう1つ読んで」とお願いをしてきた。
ほんとは、男の子のほうのお願いが先になるんだけど、ここで断ると次女が荒れるだろうなあ、と
思い、それを避けるために男の子の順番だったんだけど、次女に「あと1冊でおしまいだよ」と言い
男の子にも「あと1冊だけ読ませてね」と言い、もう1冊を読み始めた。
男の子は「いいよ」とは言ってくれたけど「バトミントンまだできない?」と聞いてきている。

しばらくすると男の子は、立ち上がりボクの横からいなくなった。
いなくなったことは横目で気づいたけど、それ以上目で追っていなかったら
道路に出てバトミントンをはじめたいた。気づくのが遅れたボクは、
「ごめんね、あぶないからバトミントンは中でしてね」と
ちょっと大きめの声で言い、それを聞いてくれた男の子は建物の中に入ってきた。

その後、絵本が読みおわり、さあ男の子と遊ぼう!と思うと、その子は違う遊びをしていた。
ボクの前を通り過ぎても誘うことなく遊びをしていた。

ボクは「ああ、悪いことした」と思った。
そもそも、バトミントンをする約束を自分の娘のために破り、さらにバトミントンをしているのを
その子の言い分も聞かず、一方的に注意してしまったなあ、と。
ボクと一緒にしていれば、そもそも道路ではせずに注意されることもなかったと。

一人申し訳ない気持ちになっていたら、男の子から折り紙を「はんぶんに折って」と言ってきてくれた。
ああ、良かったと思いながら折り紙を折っていると、おともだちへの手紙の代筆も頼んでくれた。
それをしながら、どんどん気持ちが楽になっている自分に気づいて、
いやいやこれも、まずいんじゃないかと感じた、「なに楽になってんの」と。

こどもたちは、ボクにチャンスをたびたび与えてくれる。
こっちが理不尽なことをしたしても。
ボクのことを一緒にいてもいい人としてくれているとチャンスをくれる。
そこに、甘えて、大人たちと比べてやり直しやすいから、とかかわりを雑にしているんじゃないか。

でも、子どもは間違いなく傷ついている、それは一緒にいてもいいが大きいほど傷ついている。
ボクはそのことをもっと大事に考えないといけないと思った。

子どもの歯みがき、いつするか。

「習慣を変えれば人格が変わる」

(一昨日のほぼ日のコラムを読んでいて頭に残っているコトバ)

 

子どもと一緒にいるときの自分を変えたいと思ったとき

自分を変えようとするのではなくって、その習慣を変えることができたら

自分が変わっているっていうのは、少し救いがあるなあって思います。

 

ボクで言えば、

寝る前に歯みがきをしない子どもに口うるさく言うのも、磨く時間を変えたら?

お風呂に入る前なら?ご飯を食べた後、すぐなら、どうだろう?

そんなふうに習慣を変えることなら、できそう。

 

お正月休み、いろいろ試してみよう。

子どもとの距離感。

「自分ではどうにもならないから、しゃーないね」

「ぼくは自分のできることをしよう」

「そこは、相手にまかせよう」が

仕事や妻に対してだと、いい具合にできるのに。

子どもに対してだと、途端に難しくなる。

難しさっていうのは、その部分にまで入っていこうとして

そこで娘たちと衝突するっていう感じです。

 

こどもだって、一人の人間で、

ぼくが踏み込まれて嫌だなあと思う部分を同じように持っているはず。

だから、こども自身の問題にまで踏み込まないほうがいい。

って一人でいるときは、思えるんだけど。

一緒に過ごしているときに、それが思えなくて、しんどくなる。

 

子どもに対しては自分の考えを押し付けてしまう。

もう少し、距離感がとれたらなあと思う。

迷惑じゃない、心配なんや。

ふだん、どうでもいいことばっかり話してくるおじさんがいます。

例えば「スマホ片手で操作できるんか!」と言うので

「ぼくの小さいからできるんですよ、ほら小さいでしょ」と見せると

「そうやな、わしのはもっと大きいわ」

「でも、大きいから画像も大きく見えるんや!」

とわははーと笑い、この後は下ネタになっていく。

 

またある日は「おまえ朝何時から走ってるんや」

「走るときは5:30ぐらいですよ」と答える。

すると「あほやなー、ほんで、そんな体力つけてどうするんや」

でこの後はやっぱり下ネタになっていく。

 

そんな具合なので、申し訳ないですがたまに、面倒だなあって

思うこともある、おじさんです。

でも、いつもこんな具合なので、遠くで目が合うと、こっちは微笑んでしまい

ちょっと嬉しい気持ちにもなります。

 

そんな、おじさんですが昨日は

「このまえ、お酒飲みすぎたやつがおってな、迷惑かけてすまんかった、って

メールがきたんや」

「でもな、わしは、迷惑なんか、かけられたと思っていない、心配なだけや、

と返事したわ」

と言いい、この日はそこで電話が鳴ったので話は終わり会釈して別れました。

が、この言葉がずーっとそれから引っかかっているんです。

いいなあ、って。

 

もう、いつもしょうもない、ほんと、どうでもいいことしか言わないくせに

たまに、こんなことを言うんだよなあ、このおじさん。

ぼくも、このおじさんに心配してもらえることをしてみたい、って思いました。