「愛する」ということ
愛するということは目の前の人のことを理解するのを諦めないこと。
今日、娘が通っている保育園での林 ともこさんの講演で聞いて
講演の内容と合わせて一番印象に残っていることです。
「愛する」ってよくわからないコトバだと感じています。
愛、って使うとわかったような気持ちになる。
だから、使うのには躊躇う。でも、愛というコトバでしか表現できない気持ちもある。
若松英輔さんは「情愛というコトバを使ってはどうか」とラジオでおっしゃていたが
それも、ボクには自分の言葉として使うことができないでいます。
そして、愛にまつわる、やりとりでは苦手なこともある。たとえば
「〇〇の、□□なところを愛している」と言うと
だいぶ言い尽くされたことでもあるけど
「□□じゃなかったら〇〇は愛せないの?」と言い返される。
そうすると、いやあ、そんなこともないけれど、となる。
これも言い尽くされていることだけど
「わたしのこと愛していないの?」と言われたら
いやあ、うーん、なんて考えたら、即アウトになるから
「愛しているよ」と答えないといけない。
そのとき、自分の気持ちは、よくわからなくなっていく。
愛は責任感というコトバとも結びつきが良くて
ぼくは、その言葉を自分の身で考えることが難しいです。
「愛している」と言っても、本当かな?と自分を疑い
「愛していない」と言うと、そんなこともないんだけどと思う。
「愛しているの?」と聞かれると(そんな機会はほとんどないけれど)
どう答えていいかわからない。
(愛を責任感に変えてみても同じです。)
関わっている人、ものなどを
愛していない(責任感がない)は、関心を寄せれていない自分を否定する気持ちになるし、
愛している(責任感がある)は、それを言い切るほど自分に自信を持てない感じがある。
でも、きょう講演会のなかで聞いた
「愛するということは、目の前の人のことを理解するのを諦めない」というのは
ちょっと、考えるきっかけを作ってくれました。
それは、この言葉にある
「目の前」っていうのは、自分のできる限界や狭さを認めてくれている。
数少ない人、目の前の人を大事にすることでいいんだ。
「理解することを諦めない」っていうのも、相手のことを理解できていない、
わかっていないから、愛していないのかもしれないと感じる自分に
まあ、まあ、諦めなければいいんだよと認めてくれる言葉だと感じました。
目の前の自分とは違ってよくわからない、自分の娘たち。
わっかに来てくれる子どもたち、普段接する人たちを理解するのを諦めない。
それが、もし愛するということなら、それならボクにとっては
難しいけれど、できるかもしれないと思った。
講演を聴けて良かった。