支援という関係性について
たびたび言っていますが支援(援助)という言葉が苦手です。
それは支援する側と支援される側を作り出すからです。
お年寄りと話をすると、自分ができないことがあり、それを手助けしてもらうことを
本当に申し訳なさそうに話される方がいる。
自分がしんどさを抱えていることを手助けされることには、ありがたさと同時に
「自分のできなさを認めなくてはいけない」しんどさがつきまとう。
そして、そのしんどさを感じる度合いを決めるのはボクたち周りの社会です。
そして支援される側にとっては、自分の感じているしんどさには
本当に寄り添ってもらえていない感じを同時に受け取ることもある。
しんどい本人も何がその原因かわかることは難しい。
(僕自身も子育てのしんどさは何がその原因か100%はわからない。常に何か足りない感じがある)
そもそも、相手がしんどい状態にあるかどうかはボクがわかることではない。
ボクがしんどい状況かな?って想像はできても、相手が思うこと。
そこをはき違えて、きめつけて何かをしてしまうことがある。
ぼくが支援というコトバに感じる苦手さは、自分含めて
周りが相手のことを決めつける感じにあるんじゃないかと思う。
そうならないために寄り添うっていう距離感があると思う。
寄りそうだと近すぎるかもしれないから相手が必要としてくれた時に
そっと手を出せるように少し離れたところにいるっていう距離感でもいい。
ボク自身「子育て」の支援をしてもらえることはありがたいけど
そういうことに、しんどさを感じているんじゃないんだけどなあと反発をしたくなる自分もいる。
寄り添ってくれているなあって感じられる人がいたらなあって思う。