しゃーないかな、このままで。

自分の好きなこと、居場所づくり、子育てなどで感じ考えたことを書いていきます。

次女との遊ぶ時間。

4歳の次女がトランプを毎晩しようと誘ってきます。

ばば抜き、神経衰弱、7並べの3つをボクと二人でします。

3つ全部をする!って決めているようで

先日1個やらずにお風呂にいったときに娘がしばらくしてから

お風呂に走ってきて「ぱぱ、なんでお風呂に入るんよ!」と

泣きながら訴えてきたので、その3つをすることになっています。

3つをすると、それぞれ娘の表情が違っておもしろいです。

 

ばば抜きは、娘がばばをもっているときは、そのばばを、にやにやしながら

見つめていて、ぼくが目線の先を間違えて1コ横のを取ろうとすると

慌てて真顔になり首を振り、その横のカードに目配せします。

ぼくがばばを持っているときは、どれ?って聞いてきて

ボクが言わないと、ボクの裏に歩いてきて、ばばを確認して

笑いながら、大丈夫なカードをひく、それを繰り返します。

そうして娘が勝ちます。

 

7並べのときは、ちょっと不安げにカードを出していきます。

そーっと、ゆっくりカードを置く。

そしてボクのほうを見て、ボクが合ってるよの合図をだすと

ちょっとだけ微笑んで、すぐに手元のカードから次に出せるのを探します。

ただ、もともと、最初に娘が配る段階でいつもボクのカードが多いのと

2人でしているので、これも娘が勝ちます。

 

神経衰弱は、どんなにボクが真剣にしても勝てません。

真剣勝負で勝てない。これは、娘が圧倒的に強い。

ネットを見ていると子どもが強い理由なんかも書いてありますが

なんか、途中必ず4,5コぐらい連続で取り続けるときがあり

むすめも、途中から楽しくなって、笑いながら取っているときがあります。

そんなとき娘は取り終わった後でボクに「どうだ!」と言わんばかりの

表情を向けてきます。

最後に取った枚数を数えるときは

ぼくのカードが無くなるとそれまで真剣だった顔が笑顔になります。

ぼくは、ああ、こればっかりはどうにもならないなあと素直に負けを認めます。

 

3つが終わると娘は「ぱぱ、お風呂どうぞ」と言って違う遊びを一人ではじめます。

しんどさを抱えたままでも、いいかなって思えるように。

「しんどさを減らしたい」って思っていました。

正確に言うと今も思っています。

でも、「しんどさを抱えたままでも、しゃーないかなと思えたらいいな」と

いうようにしんどさへの考え方が自分の中で少し変わってきています。

 

なぜ、そう思うようになったか。

子どもと大人が自由に過ごせる場所があったらいいなあって

古民家の開放をしているのですが、

そこにいるときに、自分自身が楽な気持ちで子どもと一緒にいて

ちょっと気持ちが前向きになっているのを感じるからです。

 

そこにいるときと、普段の日常生活で自分の感じている「しんどさ」が

変わっているかと言えば、そんなことはないんです。

変わっていないけど、いる場所が違ったり、周りにいる人が違う、

そのことで、自分の「しんどさ」周辺への感じ方が少し変わり

根本の「しんどさ」は同じでも、気持ちが変わっている。

そして、ちょっと前向きになれている、そんな自分に気づいてきています。

 

これが、「しんどさ」を減らすことをしようとしてしまうと

それがうまくいったならいいけど、うまくいかないときに、

よりしんどさを感じてしまう、そんな風に思います。

 

だから、ちょっとずらして「しんどさ」はそのままで

それでも、しゃーないかなと思えるようにしたい、なら方法はいろいろあるし

なんとかできるかなあって思うんです。

 

しんどさは、そのままで、それでも、しゃーないかなって思う。

そんな感じがいいなあ。

コミュニケーション能力って。

2か月前のことですが、Facebookに書いてことを転載します。

_______________下記転載__________________

いまの子供たちは「社会性」が足りないねえと、おっしゃる方に出会いました。
社会性とは具体的にどんなことですか?と尋ねると「コミュニケーション能力」のことだとおっしゃいました。
ボクは「そんなことないと思いますが、よくわかりません」と答えてその場はなんとなく終わりました。
相手は微妙な表情をされていましたし、ボクも、うう、苦手だあ、逃げたいと思ったんです。

苦手な理由の1つ目は、なんとなくその人が上から目線だと感じたこと。
2つ目は、コミュニケーション能力って、コミュニケーションが成り立たない人と
どうやってコミュニケーションをとるか試行錯誤をできる力のことじゃないかなあと思うんです。
もし、その人が実際に接した子供たちを通じてそう感じたなら、コミュニケーション能力が足りないと感じているということは
その人自身がコミュニケーション能力が足りないことを言っているということになります。
もし、そうじゃなく自分で感じたことではなくて一般論として言っているのなら、さらにボクは苦手な感じになります。

ボクはそんなにたくさんの子供たちと関わるわけではないので、いまの子供の
社会性がどうだとか、コミュニケーション能力がどうだとか言うことはできません。
ただ、子供たちは興味のあることに関してはすごく話をしてくれるし、自分のできたことも、わかるように話してくれます。
少々、わかりにくかったとしても、こっちが聞きたくて、わかりたいと思えば、なんとかわかります。
そこではコミュニケーションは成り立っています。
子供のコミュニケーション能力と言うとき、要は、子供と関わる大人たちがコミュニケーション能力が足りないと言っている可能性があるんだと思います。
そして、もしかしたら、ただ単に大人に余裕がないだけかもしれません。

____________転載おわり________________

これに対して、ボク自身もその方とのコミュニケーションを取れていない、という

コメントを頂いて、自分自身を見つめなおす機会になりました。

後から思うと(書いた後すぐ)、ああ、書かなければよかったかもしれないと感じることでも

そのとき感じたことを書くことはボクにとっては大事なことだと思っています。

それは、まず書くことを通じて自分の考えていることを理解できるし

それに、もし意見がもれたら、その考えを改めて見つめなおすことができます。

自分がどんなふうに思われるか、よく思われたい、っていう気持ちがあるから

怖いですが、続けていこう、そう思っています。

しんどさを感じる人はそのままなのに。

”夏休みとか、長い休みになると子供が朝から家にいるでしょ

朝起きてすぐに、今日どこに連れて行ってくれるの?と聞いてくるん

それが、毎日続くのが、ほんとつらい。

それが嫌で学童に預けたくて最初は働いていたけど

それも辞めたし、ああ冬休みがくるなあ”

 

子育て支援ってたくさんあるけど、全部小さい子供のためで

うちの子みたいに大きくなってくると、支援がない。

医療費無料だってありがたかったけど、最近病気をほとんどしないし

大きい子が遊べたり、行ける場所がないのが困る。”

 

”近くの子は学童に行っていていないし、

前は公民館が休みの時にイベントをしてくれたけど今はないし

なんかないかな。”

小学校中学年の子を持つ女性が話をしてくれました。

 

子育て支援の苦手さってこういう部分なんです。

支援という名の下で支援を受けたほうは、それが無くなったり

その恩恵を受けられなくなったなあと思うと、そのときのことを

思い出して、しんどくなるんです。

 

いま「しんどさ」を感じている自分と、それは変わらないんだけど

そのしんどさを周りが支えていてくれたときの自分を比べて

さらに「しんどく」なっていく。

 

支援っていうのはやる側にしたら「範囲」とか「対象」を

決めないとできません。

でも、子どもをもつ親は子どもの成長に伴ってその支援を

受けられなくなる。

寄り添うべき人は同じなのに、その人自身はそのままでも

子どもが成長したら支援を受けられなくなる。

子どもが成長したからって支援を受ける人はすぐには変わらない。

(小学校入学したからって、子どももだけど親もそんなに変わらない。

制度上の区切りがあるだけ)

 

子育て支援」っていうと子供をみていなくて親しか見ていない

そのことも苦手ですが、

親自身をも一人の人としてではなくって、子育てをしている人

子どもの親としてしか見ていないように感じるのも苦手です。

支援をされる側になった人は、そんなふうには割り切れないです。

支援という関係性について

たびたび言っていますが支援(援助)という言葉が苦手です。

それは支援する側と支援される側を作り出すからです。

 

お年寄りと話をすると、自分ができないことがあり、それを手助けしてもらうことを

本当に申し訳なさそうに話される方がいる。

自分がしんどさを抱えていることを手助けされることには、ありがたさと同時に

「自分のできなさを認めなくてはいけない」しんどさがつきまとう。

そして、そのしんどさを感じる度合いを決めるのはボクたち周りの社会です。

 

そして支援される側にとっては、自分の感じているしんどさには

本当に寄り添ってもらえていない感じを同時に受け取ることもある。

しんどい本人も何がその原因かわかることは難しい。

(僕自身も子育てのしんどさは何がその原因か100%はわからない。常に何か足りない感じがある)

 

そもそも、相手がしんどい状態にあるかどうかはボクがわかることではない。

ボクがしんどい状況かな?って想像はできても、相手が思うこと。

そこをはき違えて、きめつけて何かをしてしまうことがある。

ぼくが支援というコトバに感じる苦手さは、自分含めて

周りが相手のことを決めつける感じにあるんじゃないかと思う。

 

そうならないために寄り添うっていう距離感があると思う。

寄りそうだと近すぎるかもしれないから相手が必要としてくれた時に

そっと手を出せるように少し離れたところにいるっていう距離感でもいい。

ボク自身「子育て」の支援をしてもらえることはありがたいけど

そういうことに、しんどさを感じているんじゃないんだけどなあと反発をしたくなる自分もいる。

寄り添ってくれているなあって感じられる人がいたらなあって思う。

折り目のある絵

次女(4歳)は、寝る前によく絵を描いています。

ぼくがいるテーブルに紙と鉛筆などをもってきて斜め前の席に座り、描き始めます。

ぼくは本を読んだりしているので、娘は一人で描きます。

 

そして描き終わると必ず、くるくるっと丸めて

『はい、プレゼント』とちょっと照れながらボクか妻に渡します。

どんな絵だろう?楽しみだなあ?なんだろうって本人の前で開けてみるとステキな絵には必ず折り目がついています。

本人は折り目があることは特に気にいていません。最初のころは

ああ、折り目ないほうがいいなって、ちょっと残念に思っていたんですが

今は折り目のある絵、いいなあ。って思います。

まだ、しばらく折り目はあるんだろうな、折り目も含めて楽しみです。

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こどもにいろいろな経験、も大事だけれど

少し前に米原市の発行しているものに書いた文章です。

 

 

子どもたちが、いろいろな経験をするには年齢が小さいほど周囲の大人が子どもを見守り、思いに応えることが必要になります。

しかし、忙しい日々、こどもをじっくりと見守り思いに応え続けることは難しいです。また良かれと思い、子どもが失敗しそうになれば、先回りして手助けをしたり、正しい方法を教えてしまいます。

また、「手伝って」と言われても後回しにすることもあります。でも、子どもの試行錯誤を見守り、必要な手助けをし続けると、子どもは自分の力で「できた」と感じ、最高の笑顔を見せます。

それは、子どもにとって素晴らしい経験になります。日常で見守り手助けをすることは難しいですが,週に1回でもできるといいなと思います。